江村夏樹
1.ぼくの考えでは、
a.音楽は特定の環境の中で行われる。 b.聴いたことがない音は音楽の材料にはならない。 c.音楽は言語ではない。 この3つが、あらゆる音楽に共通する属性だと思います。少なくとも現時点での考えをまとめると、上のようになる。のですが、なんか当たり前すぎるようにも読めるし、見かけが少し抽象的すぎて、何を言っているのかつかみにくい。 そういうわけでこのページでは、ぼくがどういう姿勢で作曲なりピアノなりをやっているか、うまくお伝えできるかどうかわかりませんが、書いてみましょう。ちょっと個人的な体験談も混じりますが、この際、止むを得ない。 この記事の書き始めは平成13年11月14日(水)です。
たとえば、スイスの精神科医デュスは、セシュエー夫人のあつかった分裂病の少女ルネの病的体験が多くの点で実存主義的作家、とりわけサルトルの二、三の小説の主人公、たとえば、『嘔吐』のロカンタン、『猶予』のダニエルらにより報告される「実存的」経験と共通していることを確認し、積極的に「分裂病者における実存的経験」を指摘している。だが、アメリカのスターンのように、むしろ「実存主義者の分裂病的経験」のほうがより真実に近いと主張する見方もある。いずれにしても、人間の実存的地層における諸体験が非日常的な、というよりも、日常性のなかに埋もれた事物や事象のもっとも源初的の意味をあらわにしてくれることは確かである。このあと宮本氏は、分裂病の少女ルネの告白と、サルトルの『嘔吐』のロカンタンの告白とを交互に引用して比較し、ルネが「自分の実存が完全に無償であることを見いだしたときに」《嘔気》を感じたことと、ロカンタンが「事物の実存とその無償性を発見したことは」「嘔気を催すほどに恐るべきことだった」という精神状況とが、同じ状態であると述べる。
たしかに、ここでは、分裂病的体験と実存的体験との境は消え去るしかないが、しかし、それらを超えたところに新しい世界の相貌がひらけているようにみえる。かどうかは、宮本氏の原文からは少し汲み取りにくいのですが、
そして、それを普遍的な創造として成立させるためには、すでに述べたとおり、共同世界への絶えざるまなざしによって導かれることが必要であり、これこそ作品の普遍的な了解性を保証するものであるが、もし、それが失われれば、実存の深化は一転して実存の衰弱ないし貧困となり、そのときには、もはやいっさいの了解を拒否する奇妙な想念の遊戯か、あるいは、浅薄な社会性・外向性をもつだけの弛緩した製作物しか生み出すことができなくなる。たとえば、あれほど深い生存層からの「叫び」をあげたムンク(引用者註、ノルウェーの画家。『叫び』という絵は、ブームになったくらい有名)も、病いから脱してからは、外界の事物を写すだけの、密度を欠いた作品が多くなる。病いの後で寛解に達してからの創造物の価値が、病のなかでのそれに比べて、かえって急に低落する例は少なくない。なんで宮本氏の考察をながながと引いているかというと、氏が、優秀な精神科医で、かつ、優れて一般的な芸術愛好家だと思うからです。自分の研究のために材料を取材しよう、なんていうような、「精神分析的な」構えた姿勢は、この人にはあまり見当たらない。むしろ、積極的に病的状況と係わり、親しんでいるように読めます。以下宮本氏の結語。
このように、分裂病の場合、創造の結実は、むろん天賦の才を前提とするものではあっても、社会的現実からの離脱と実存性の深化との微妙な均衡の上に成り立つといえるが、他方、芸術的不毛に至る危険をもみずからのうちに秘めていることは、彼らの本質的な悲劇性を物語るものであろう。
(宮本忠雄『言語と妄想』平凡社ライブラリー、220〜224ページ) うるさくいえば、「芸術」とか「天賦の才」とか、そういうことばに引っかかりを感じないではない。ルネは精神分裂病の少女で、芸術家ではないとか、そういう枝葉末節を突付くことはいくらでもできます。しかし、宮本氏の着眼点が別のところにあるのははっきりしている。氏が「創造」と言うとき、このことばは、およそすべての「ものを作る活動」を指しているのだと考えられる。何も、偉大な「芸術家」の特殊な創作のことを指しているのではない、と読めます。 今回はここらへんで終わりですが、ご登場願った宮本氏のように、筋の通った立論を展開することは、江村夏樹は、どちらかというと苦手です。ですが、いくら作曲家でも「音で考える」ことはできないのであって、考えるときは、言語を使う必要がある。むつかしいぞ、どうやってあとを続けるか、と、前の章で考えていたんですが、いっそ専門家に代弁してもらいましょう、ということでした。 [2002年1月31日(木)/つづきは後日]12. ここ2週ほど、何かの拍子に、決まって頭に浮かぶ、ひとつのエピソードがあるので、今回はそれを書きましょうか。中学生のとき、3年ぐらい後輩の女の子から聞いた実話です。断っとくがぼくは不良ではなかった。この女子学生とよからぬ火遊びをした事実はないので、念のため。 彼女の学年で、クラス対抗のレクリエーション、「学年会」をやった。上級生たちは、だから見そびれたんですが、このとき、この女の子の属する学級の出し物が『越天楽』 だったと言う。 これは、クラス全体で頭をひねっても、いいアイデアが何も浮かばない、演劇もコントも物真似も奇術も、なんにも、ピンと来る発案がなく、いいかげん皆がくたびれたころ、誰かがヤケ気味に「越天楽」と呟き、途端に他からの猛烈な反発意見、失望のため息、などが挙がったが、これしか意見がない以上、学級長は権限を行使して、このヤケ半分の提案を最終案にしてしまったのだと言う。 「学年会」当日までの詳しい経緯は聞きそびれた。しかし、当日の『越天楽』は一大センセーションを引き起こし、記録的な成功裡に会は終了したと、女子学生は報告する。 どうやら、雅楽の『越天楽』をそのまま、極力忠実にコピーしたらしい。「らしさ」を徹底的に追求したんですね。たいしたものである。 太鼓は大太鼓で代用する、まあ妥当です。
牛乳のビンの口をスプーンで叩く団体がいて、これで「鉦」の音を出した。
鍵盤ハーモニカの一群れ、合竹なんか知らなかったでしょうから適当に弾いて、これで笙を模倣する。
琵琶の音は、調弦を狂わせたギターをピックで引っ掻いて作った。
琴のかわりにピアノを使った。
ソプラノリコーダー数名のユニゾン、ただし音程がちょっとづつ違う、これが竜笛。
篳篥だけ、吹奏楽部のトランペットの人がやった。 なんかすごい、いい話ではないか。専門家を志すと、いや、「大人になると」、なぜこういう工夫を忘れるのか。みっともない、とか思うのかな。 この話で印象的なのは、当人たちがヤケになった挙句、いっそ調子に乗って凝っちゃおうと本気になったところなので、おそらくその「本気」がセンセーションの原因だったと思われます。 そこに、単なる模倣を超えて創作にまで高めてゆくエネルギーが発生した、つまりコミュニケーションの萌芽が生じたということ。 まあ、あんまり批評しすぎてもどうかと思うので、視点を別のところに移して、この、『越天楽』 という企画のおおもとの出発点は、《いい企画が思いつかずに皆がヤケになった、その態度》を、しゃあしゃあと肯定したこと、だったんじゃあないかなあ。反発はあったにしても、取り繕うとか、余計なことを考えなかった、これは、結果として、当人たちの発意それ自体を飛び越すことになった。そこに、出し物の成功が隠れていた。 こういうことには、恐れを知らぬ子供のこわさが見てとれる。反発意見があったのも、たぶんそのせいだ。みんながすーっと、やろうやろうと和気藹々になったとしたら、この思春期の一群40人は、中学生というより化け物に近い。彼らを救ったのは、集団の心理だと思います。「越天楽」を言い出したその男子生徒(報告による)だって、一種の倦怠におちいった皆を助けるつもりがどの程度のものだったか、あったにしても高が知れている。しかし、これは、たいへん手の込んだあそびをもたらした。 先日、『ロス・ケーリの音楽、江村夏樹の音楽』というコンサートを終えたわけですが、その準備中、ずっと、この女子学生の報告を思い出していた。両方にまたがるような具体的な共通項は、ない。ですが、コンサートが終わって、今書いたエピソードは、今回のコンサートの結果をどう見るか、考えるとき、ある視座を与えてくれるように思います。 ニュージーランドで買ってきた「100 NZ short short stories」という本、これは『越天楽』とは全然関係ありませんが、こいつの第1話、ジュディ・パーカー『帽子』が振るっている。ごく短いので、写しておきましょうか。なお、この本の編集者は、これら100のショートショートは「文学の盆栽(literary bonsai)」だと述べています。へたな訳文を載せるのも気が引ける、そんなに難しい英文ではないので、原文だけにしておきます。The HatJUDY PARKER THE PRIEST LOOKED up from the psalms on the lectern, cast his eyes over the hats bowed before him. Feathered, frilled, felt hats in rows like faces. One at the end of row different. A head without hat. A cat without fur. A bird without wings. Won't fly far.
Voices danced in song with of the window. Red light played along the aisle, blue over the white corsage of Mme Dewsbury, green on the pages of the Bible. Reflecting up on the face of the priest.
He spoke to the young ledy afterwards: ‘You must wear a hat and gloves in the House of God. It is not seemly otherwise.’
The lady flushed, raised her chin, strode out.
‘That's the last we'll see of her’ said the organist. The organ rang out, the priest raised his eyes to the rose window. He did not see the woman in hat and gloves advancing down the aisle as though she were a bride. The hat, enormous, such as one might wear to the races. Gloves, black lace, such as one might wear to meet a duchess. Shoes, high-heeled, such as one might wear on a catwalk in Paris.
And nothing else.[2002年2月14日(木)/つづきは後日]13. (…結局、大人も子供も遊び足りないのかな。
寄ってたかって何が始まるかと思えば、みんな同じこと。違うことを受け入れておもしろがる、なんか考えもしない。そんなに違うことがこわいのか。
はぐれたら寂しいですね。なんか自分もいられる場所が欲しさに、みんな、ひとと同じ服を着て、同じマナーでしゃべり、達者でな、かい?「社会とはそういうもんです」 ああそうですか。
鉄道駅構内にエレベーターを増設するのはいいことでしょ?だけど、その代わりに階段をなくしちゃうのは変だよ。
こういうことはいつだってあった。こっちのほうがフツー、だとすれば、ぼくらのように、現実から取材し、加工して、こうにもなる、ああにもなる、かなんかやっている人種は頭がおかしい、ということに、なっちゃうのか。変なの…。)
[2002年2月25日(月)/つづきは後日]14. 巻物のように長く続いています。
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